モーリアック「テレーズ・デスケルウ」映画化

数日前、フランス映画祭のHP(毎年この時期にユニフランス・フィルム主催で開催され、日本未公開のフランス映画が上映される)で、今年の上映作品を眺めていたら、おっこれは!と思う映画があった。残念ながら、上映は終了していたが。
監督;クロード・ミレール 主演;オドレイ・トトゥ
『テレーズ・デスケルウ』 

モーリアック『テレーズ・デスケルウ』(1927年刊行)は、映画化してほしいなーと思っていた小説だった。当HP・Lumiereの「About」コーナーの片隅に「映画好きへの100の質問」というのをひっそりUPしていて、2007年に更新したっきり、放置したままなんですが。その質問54番「映画化してほしい本やマンガは?」に対して、「モーリアック『テレーズ・デスケルウ』をベルイマン監督で」と答えているんですねー。今、質問されても、同じように答えると思う。ベルイマン監督は亡くなってしまったけど。
でも、まさかねぇ、本当に映画化されていたとは。。。

外国純文学なんて数えるほどしか読んでいない私が、『テレーズ・デスケルウ』だけは繰り返し読んだ。何にそこまで惹かれたかというと、主人公テレーズの孤独である。
テレーズは、聡明で、文学や神を論じることが好きで、財産の管理にも関心があり、自立心の強い娘だった。資産家の彼女は、周囲のすすめられるままに、やはり資産家のベルナールと結婚する。しかしベルナールは、新婚旅行先の美術館で、「絵の番号と案内書の番号があってるかどうかばかり気にして、短時間で見るべきものは見たと満足する」ような男。「家」という黴びくさく、ちっこい城の主であることに満足し、古い価値観のなかに安住している。この封建的な「家」という檻のなかで、テレーズは「自分」が押し殺されることに耐えられず、夫の毒殺を計ってしまう。「家」の体面を重んじる夫の偽証によってテレーズは免訴になるが、幽閉生活とそれまで以上の服従を強いられる。罪を犯すほどの彼女の決意も、「家」の前にあっけなく屈服させられ、夫や姑、実父さえも「家」の体面を守るため、くさいものにふたをすることに腐心し、彼女がなぜそこに至ってしまったか、心情をこれっぽちも考えようともしない。究極の行動を起こしても何もだれも変えられなかった、絶望と孤独のなかに沈められるテレーズに引きつけられてしまう。
この小説が書かれてから、86年経つけど、テレーズの孤独は続いているし、今でも分からない男もいるだろう、なぜテレーズが夫を殺そうとしたか。そう言えば、ウチの母がよく言ってましたっけ、自分に、そして娘の私にも言い聞かせるように。「女三界に家なし」。

映画化を願いながら、一方で、これを脚本、映像にするのは難しいだろうなぁとも思っていた。テレーズが、なぜそんなことをしたのか、自分の過去と内面を見つめなおすとき、まるで彼女の手に引かれて、女の孤独の深みへと一歩一歩下りていくようなのである。彼女の動機は一言では言い表せない。「あたしが苦しんできた名状しがたい心の領域」であり、根っこが複雑に絡み合うように語られる彼女の内面が、台詞と映像で表現できるのかなぁ…と。
監督はクロード・ミレール。過去に見たのは『小さな泥棒』1985年だけだが、DVD持ってるぐらい好きな映画。期待はできそう。フランス映画祭の作品紹介ページによると、監督は昨年の4月に亡くなっており、本作が遺作。一つだけ、映画を観ていないのにしっくりきたのは、主演のオドレイ・トトゥ。小説では、テレーズは「美しくはないが、魅力そのもののような」女と表現されていて、オドレイ・トトゥってまさにそんな女優だわと思った。日本で公開されるのなら、ぜひ見に行きたい。

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